
前回に続き、経緯となる。
まだ、いっときは経緯が続くと思う(笑
前回、0と1の二進数に対する考えを述べた。
前回も言ったが、人は0と1の中間的存在だと自分は思っている。
チキンレースにも例えられると思う。
というか、人生はチキンレースだと思ってる。
遅すぎてもだめだし、だからと言ってアクセルを踏みぬいたら
崖からダイビングしてしまう。
例えば、食べ盛りでアクセル踏み抜いて、色々食べてしまうと
太っちゃうし、やばいと思ってダイエットしまくって
長期間も何も食べなかったら、栄養失調になって餓死してしまう。
お金とかもそうで、大盤振る舞いで、いろんなものを買って
ストレス発散しても、いつの間にか貯金がなくなっちゃうし、
かといって、何も買わなかったら、ストレスもたまる。
何のために生きてるかわからん状態に陥ってしまう(かも)。
仕事でも、イケイケですっ飛ばしてこなしていくけど
重大なミスを忘れてて、プロジェクトの終盤で、
最初からやり直しなんてザラじゃないと思う。
かといって慎重になりすぎても、全然進まなくて上司から
ブチ切れられることもあるかもしれない。
こういう風に人間は常に何かの板挟みになって
この中で右往左往しながら突き進んでいく、
中間管理職みたいな(?)生き物のイメージを自分は持っている。
そもそも、人って”人間”ともいう。
何故、”間”という文字をつけるのか。
この頃は、何かと何かの中間
を連想させる言葉に敏感になっていた。
ネットで調べた内容で申し訳ないが
“人間”という言葉には以下の意味があるそうだ。
“人は単独で存在するのではなく、他者との関係性の中で生
きるため、「人の間(あいだ)」という表現が生まれた。つま
り、人間とは、人と人の間に生じる存在を表している。”
というふうに書かれている記事があった。
社会的な関係性を表しているようだ。
あと他にも、こう書かれている記事もあった。
“人と人とが相対したときに生まれる「間」に流れるエネルギーは、
方向性がなんとなく見えながらも、でもどう転ぶかは分からないとい
う不確定な要素がある。「対話」がそうであり、それはまた瞬間に生
成される音楽のセッションのよう。”
やはり社会性を表してるっぽい。
社会性って調和だったり、共存だったり、共生とか
これらを日常とし、日常とするために変化する柔軟さを表している
のようなイメージだ。
バランスをとったり、環境に馴染むように変化や進化したり。
なぜ、こんなに柔軟なのか。
これに対して、機械は人の手がないと、変化も進化もできない。
それはなんでか。
また、人と機械の違いを考えてみる。
ふと思いついたのが、水だった。
すごい単純で申し訳ないが、人と機械って、
物質でできてるけど、人にあって、機械にないのは水だなって考えた。
人は60%が水で占めている。
機械は構造の中に水は含まれてない。
水の特徴って、何かにさらされると
形がすぐ変わる。すごく柔軟だ。
この性質は人と似てないか?
先ほど、環境に馴染むように進化すると書いたが
言い換えれば、周りの環境によって人が変化する
というとらえ方もできる。
あと、水って温度を加えると、蒸気になって、気体へ変化したり
冷やせば氷になって固体へ変化したり、柔軟性のオールラウンダー(?)だ。
そういえば液体って、固体と気体の中間的な状態だな。
気体が0で、固体が1で…っていう考えもできる気がする。
要するに、人は0と1の中間的な物質である(多分)水の性質に
多く影響を受けている生き物であり、その柔軟な特性を引き継いでいる
生き物だと思った。
そんでもって、機械(特に電気で動くコンピュータ)は
材料は固体で、駆動するさせるための回路に流れる電気
は気体…と言いたいところだが、電気はエネルギーであって
気体ではないとのこと。ただ、電子ガスという言葉がある。
電子ガス(電子気体)とは電子の集団を気体としてみなすときの言葉
とのことだ。自由電子の振る舞いを説明するためのモデルとして扱
うときに使う言葉だそうだ。
逆を言えば電子の集団は気体に近似した振る舞いをするというわけだ…
というのは、ちょっと強引な気もする。でも、共通点もあって、どちらも”見えない
“、”形がない”という特徴がある。
このように機械には水が構造の中に含まれてない。
(少なくとも、水冷機構は別として、昨今のコンピュータには含まれてない…はず。)
身体の構造の中に水を含むからこそ、生物であり、人なのだと思った。
ちょっと観点を変えて水について調べてみた。
仏教の観点からすると
“『華厳経』では、水がすべての命をつなぐ媒体として登場し、
「縁起」の教えを象徴している。仏教において水とは、単なる
物質ではなく、「つながり」や「慈悲」、「清浄」や「変化」の
象徴。”
という記事があった。
華厳経とは、経典の一つらしい。
一方、他にも
明鏡止水という言葉がある。
どういう言葉かというと
“「邪念がなく、澄み切った心の状態のこと」をさす言葉。
「明鏡止水」とは、「明鏡」と「止水」という2つの熟語で成り立つ四
字熟語。「明鏡」とは、「曇りのない鏡」のことで、「止水」とは、
波紋などもない「静かな水」のこと。つまり、わだかまりや偏見など
がなく、とても落ち着いている状態をあらわす。”
とのことだった。
水は変化やつながりの象徴とされていたり、
一方で、波紋がない静かな状態、落ち着きのある状態であれと
いう教えを説いている言葉もある。
対照的ではあるが、どちらの要素も持ち合わせているところが
柔軟である証かと考えた。
ブルースリーの名言には下記のようなものがある。
“水になれ”
この言葉には前段があり、
“心を空にせよ。型を捨て、形をなくせ。水のように
カップにそそげば、カップの形に
ボトルにそそげば、ボトルの形に
ポットにそそげば、ポットの形に
そして水は自在に動き、ときに破壊的な力をも持つ
友よ、水になれ”
この言葉は、仏教でいう”水”と”明鏡止水”に通ずるもののように思えた。
心を空にして、静かな状態であれ。
柔軟に形を変え鍛錬しろ。
時には自由に動き、型をやぶれ。
と言ってるような気がした。
ブルースリーは宮本武蔵の五輪の書が愛読書だったそうだ。
その中にも、水の巻というのがあり、その中に柔軟性と適応力の
重要性が語られているとのことだった。
水の柔軟性は人の柔軟性を表しており、
人は水を主成分としているが故、水と同じような特性
を持ち、柔軟に変化、適用、進化していくんだな
と理解した。
この”水”が機械と人の違いの一つのキーポイントではないかと
考えた。
続く
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